怪我による歩けない日々で、老後の生活を考えさせられました。自立して歩けるかどうかで幸せは決まるような気がします。
足底腱膜炎を患っていて、できるだけ歩かない生活をしています。さらに3日前から松葉杖で生活をはじめました。それまでは東京全体を自由に走りまくったりしており、他の人より何倍も活発だったので、その落差に落胆しております。さらに、松葉杖生活をしてからはまともに歩くということもしていません。そんな生活を通じて、、、「自立して歩ける」ということの素晴らしさを改めて感じています。それができるかどうかで、生きていて楽しいか悲しいか、幸せなのかが大きく決まってくる気がします。
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「歩く」ことができないと、自然と生活範囲が極端に狭くなっていく
ここ最近感じているのは、「歩く」ってものすごく重要なことだということです。何をするにしても、どこにいくにしても「歩く」という行為は必要になってきます。例えば、料理をするにしても、材料を買いに行くためにスーパーに行くことが必要になるはずです。食事をするにしても、レストラン等まで歩く必要があります。その他、友達に会うのにも歩くことが必要です。車を使うにしても、少しは歩くことが必要になってきます。何をするにしても、「歩く」ことが必要となってきます。歩けなければ、一人の世界に引きこもるような生活になってしまいます。。。。
これは当たり前のことですが、実際普通に歩けているときには、「歩ける」ことの重大さを感じることはありませんでした。むしろ、「歩く」のなんて「走る」ことから見たら、怠けているようなイメージであり、それが貴重なんて全く思ってもいませんでした。松葉杖生活で歩けなくなった今、、、、その重大さをもろに感じています。
歩けるかどうかで自立性が決まる。自立した生活ができないと幸せを感じにくくなる
もう一つ感じているのが、歩けなくなると、自立性が極端に落ちるという事です。歩けなくなると、自分ひとりでは生きていけなくなってきます。誰かの手助けが必要となってきます。その「手助けが必要な期間」が一時的だったらいいのですが、それが死ぬまで一生続くとなると話は変わってきます。人によっては「生きている意味」さえ考えてしまうぐらいの重大なことになるかと思います。
人に迷惑をかけないように自立して生活していき、さらに他の人の役に立てるように生きていきたいと思っている方は多いと思います。生きているのですから、他の人にマイナスの影響を与えずに、できるだけプラスになるような貢献をしていきたいですよね。それが、自立した生活ができなくなると、、、、人に迷惑をかけることがどうしても多くなってきてしまいますよね。そうすると、自然とプラスよりもマイナスの影響を他の人に与えてしまうことが多くなってきます。そうした時、、、、それでも幸せに暮らせる人ならいいですが、多くの人は幸せを感じられなくなってしまう気がします。自分もこの松葉杖の生活が一生続くと考えたら、、、幸せを感じられる自信がないです。
いつまでも「歩ける」ように、今のうちに強い身体作りをしておこうと決心
自分がランニングをし続けているのは、健康のためでも、老後のためでもありません。ただ、自分の中で最大限の努力をして、できる限り速くなりたいからです。老後のことなんて一切考えていませんでした。今が速く走れるなら、老後は歩けなくなったってかまわない、、、そう思ってました。しかし、今の松葉杖で生活で歩けることの重要さを再認識させられました。
いつまでも歩き続けられること、いつまでも走り続けられることはものすごい幸せなことなのです。「歩ける」ことは即ち自立であり、幸せのベースラインではなのではないかと思ってます。なので、老後でも走り続けられるように、死ぬ直前まで走り続けられるように、健康な身体作り/誰にも負けない強い脚作りをしていけたらいいなあと思ってます。せっかく走っているんですもんね、、、、その走ることで身体を壊していくのならば悲しすぎます。なので今後は健康な身体作りも視野に入れて、トレーニングに励んでいきたいと思っています!そのためにも、今の悲惨な松葉杖生活から1日も早く抜け出せるよう頑張りたいと思います!(だからといって焦りません。完治を目指して一歩一歩がんばります!)
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